ジェンべ・フォラとの遭遇 #2


車窓から見える川土手の向こうの空に
巨大な入道雲がどんと腰を据えていた。
今日も朝から暑い。

ママディさんのワークショップ会場のあるT市は、
当時わたしが一人暮らしをしていた
O市内の中央部から
地下鉄と私鉄を乗り継いで1時間ちょっとの距離。
ジェンべを担いで電車に乗るのにも
ずいぶん慣れた。

教室のジェンべ仲間とは日程が合わず、
この日のワークショップはひとりで参加した。

その後わたしのママディ・ケイタさんに関する知識は
乏しいまま特に増えることもなく、
淡々と静かにその日を迎えた。

しかしワークショップ会場に入った瞬間、
静かだった心が急にざわざわと動きはじめた。

ひ、人が多い!
ざっと見ただけでも会場にはすでに
30人ぐらいの参加者がいるのが見えた。
そしてわたしの後からも
まだ次々と参加者が来場していた。
これ一体何人来るの?
わたしみたいな初心者でも大丈夫なのかな?
不安な気持ちが一気にあふれる。

受付を済ませて、
まだ空いている席のその中でも
一番目立たなさそうなポジションをなんとなく選んで
ジェンべをケースから出した。

ジェンべのワークショップは、
受講者が30人いれば30台のジェンべが揃う。
色、形、大きさ。
ロープの巻き方も似ているようで微妙に違う。
ひとつとして同じジェンべがない。
いろんなジェンべがあるんだなぁ。
不安な気持ちをできるだけ鎮めようと、
始まるまでじっと眺めて観察していた。

しかし叩き始めると、
もうそんなことはどうでもよくなって、
一気に気持ちが軽くなった。

ママディ・ケイタさんは、ギニア人だった。
そしてジェンべは、
ギニアのある西アフリカから世界に広がった、
ということがわかった。

そういった話をされている時の声や表情、
たたずまいから、
これはただの人ではないということが
ママディさんの音を聞く前に
すでに伝わってきたのが忘れられない。

参加者すべての人の心が、
ママディさんに引き寄せられていた。

当然ながらママディさんが話す言葉は
日本語ではなかった。
大学の時に第二外国語で専攻していた
フランス語だった。
フランスなんて行く予定ないし無駄無駄!
とばかりに、
単位を何度も落としまくった因縁のフランス語。
こんなところで出会うとは。
もっと勉強しとけばよかった。

実はその後悔はこの先再びやってくる。
(もちろんそのエピソードも後々登場予定。)
学生の時ってただ単位目的で授業や試験に出て、
とにかくそれがもう
無意味で面倒くさいだけに感じていたんだけど、
でももしかしたら、
将来どこかで役に立つかもしれない、
いや、役に立たなくても
芽の出る前のちっぽけな種ぐらいには
なる可能性があるので
もしもう一度大学生をやり直せるならば
フランス語も真面目に勉強するだろう、と思う。

そうそう、
あともう一つ驚いたのが、
ワークショップの
サポートミュージシャンとして参加していたのが
あのD氏だった。
D氏がギニア人ということが、
この時ようやく判明したこともよく覚えている。

ジェンべを買った時に電話で話したD氏の奥様が
フランス語の通訳をされていたのも
印象的だった。
この時は直接お話はしなかったが、
ママディさんの言葉をハキハキと通訳される、
大変お美しい方だった。

ママディさんのサイン、見えます?
ワークショップ前は「誰それ?」状態だったのに
2時間弱で一気にファンになってしまったという(笑)
ワークショップ終了後、ミーハー心に火がついて、
サイン待ちの列に並んで書いてもらいました。
この初代ジェンべは今はもう人の手に渡っておりまして、
手元にありません。
全てはこのジェンべから始まりました。
写真を見るといろいろ思い出しますね。
大事にしてもらってるかなぁ。

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