ジェンべ・フォラとの遭遇 #3


ママディさんのワークショップに、
初めて参加したわたし。
いち受講者として参加して、
大勢の人と一緒にジェンべを叩いた。
ごく普通に、それ以上でも以下でもなく、
ただそれだけだった。

ママディさんと言葉を交わしたわけでもない。
というか、もし何か話せなんて言われても、
フランス語なんてさっぱりわかんないから無理。
小心者のわたしは、他の参加者に紛れながら
サインだけはちゃっかりもらって、会場を後にした。

本当にただ参加しただけなんだけど、
それでもわたしの心の中には今まで以上に、
爽快な風が吹いていた。

ますますジェンべが好きになって、
もう他のことは考えられないぐらいだった。

初めて聞いたママディさんのジェンべの音は
それはもう言わずもがな圧倒的な迫力で、
あれだけ大勢の生徒が叩いている中でも
ママディさんの音だけが
耳にはっきり届いてきて驚いたのを
今でもしっかり覚えている。

結果としてわたしは、
このママディさんのワークショップに
参加したことをきっかけに、
ジェンべに対する興味や好奇心が
多くの打楽器のなかのひとつという認識から、
西アフリカの民族楽器という方向へ、
徐々にシフトチェンジしていくことになる。

それはつまり、
気持ちのコンパスが指し示す方角が
アフリカへ向かうということだった。
でもこの時はまだ全く意識していなかった。
それでも自然とそうなっていった。
まるでジェンべの中に宿る神様に
導かれるかのように、ゆっくりゆっくりと。

ママディさんが、
偉大なジェンべ奏者を讃えた敬称
「ジェンべ・フォラ」と
呼ばれていることもそのあとで知った。
今でこそ、頑張ってるジェンべ奏者くんを
「あんた、ジェンべ・フォラだねぇ」なんて言って
冷やかし半分に褒めたりもしてるけど、
その言葉を知った時は、
ジェンべ・フォラという言葉や存在が、
神々しく感じた。

ギニアという国があることも覚えた。
正確にはギニアという国を、
生まれて初めてちゃんと認識した。
学生時代の地図帳を引っ張り出してきて
アフリカのページを広げたりもした。

Yさんのジャンベ教室へは
この後もしばらく通うことになる。
習うリズムは、Yさんがアレンジした
ブラジルやキューバなどの伝統的なリズム多かった。
ジェンべを叩くことが楽しくて仕方なかったあの頃、
特にそのことに対して
疑問を感じたことはなかったけれど、
ジャンベ教室って言うんなら
ジェンべのリズムをやるんじゃないの?
と、今ならば思う。

しかしこれも結果なのだが、
いろんな国のリズムを
パーカッショニストである
Yさんの視点を通じて習っていたことで、
ジェンべの基礎が身につき、
その後の出会いや縁がより広がることになる。

人生、無駄なことは何一つないのだなぁ。
まぁそんなことは本当に
今だから言えることであって、
当時のわたしは、ぼーっとしていたけれど。

あと、ママディさんのワークショップで
Iくんという男性と少し話をした。
歳はわたしと同じくらい?もう少し若いかな?
長身ですらっとした青年。
Iくんは打楽器を演奏するサークルを
自ら立ち上げていて、
車窓から見えたあの川土手などで
時々練習しているんだそうだ。
時間があったら遊びにきて、と名刺をもらった。

あの日あの場所には、いろんな人がいたんだ。

きっと何もかも全然違う。
住んでいるところも、年齢も、職業も、国籍も、
服装の好みも、乗ってきた電車も、昨日食べた晩ごはんも。

ジェンべがきっかけで、初めて出会う人たち。
肩書きが違っていても、一緒に叩いて、
同じ空間で同じ時間を共有した。
ジェンべを叩いている時はみんな、
ママディさんに導かれ行進する、
ひとつの大きな輪だった。

Iくんのようにその後何度か会うことになる人がいたり、
でもきっともう二度と会わない人もいて。
会場はまるで、一瞬だけクロスする
交差点のようだった。

その交差点の真ん中で、
わたしたちは一緒にジェンべを叩いた。
そして信号が変わると、
またそれぞれの道へ帰っていった。

ワークショップって、
いろんな意味でおもしろいな、と思った。

うちのジェンべ・フォラです(笑)

ジェンべ・フォラとの遭遇 #4へつづく)

コメント