そしてわたしは無職になった #1


1日のほとんどの時間を会社で過ごし、
週に一度、Yさんの教室でジェンべを叩く。
そんな生活が何年か続いた。

広告業界の仕事は不規則で、
残業も徹夜も休日出勤も当たり前だった。
Yさんの教室が終わった日曜の午後に、
ジェンべを持ったまま休日出勤することも
しょっちゅうあったし、
そんなわたしを気にとめる社員もいなかった。

気づくと半年以上
まともな休みをとっていないぞ、とか
そういう恐ろしいことが
そこかしこで起きていたけれど、
それを疑問に思うどころか
連勤記録更新がまるで勲章のように
掲げられるような労働環境だった。

さらに暴露すると、
タイムカードすら存在しないという
労基が入ったら一発でおしまいな会社だった。
給料は年棒制だから、
残業代もボーナスもない。
年に一度プロ野球選手ばりに年棒を交渉する。
しかしその金額はプロとは思えないほど低く、
不夜城で馬車馬のように働き続けても、
コンペに勝ち続けても、
なぜかたいして上がることはなかった。
ブラックもブラック、真っ暗闇の勤務形態。

そして、
不景気のあおりをまともに受けて
どの企業も宣伝費が削られる一方だったため、
広告制作のコンペは熾烈を極めた。
コンペの度に、会社に数日こもって仕事をしていた。

「クリエイティブの追求」という旗のもと、
おもしろくないものをおもしろく、
売れないものを売れるように、
何よりもクライアント様様に気に入られることが
最も重要なミッションで、
それを企画とデザインで何とかするのが
わたしたちの仕事だった。

「できません」や「無理です」と言うワードは
存在しない。
「ピンチ」をアイデアで
「チャンス」に変えて「成功」させる、
そんな錬金術が必要な業界だった。

そんな中で、
自分がデザイナーとして関わった仕事の広告が、
駅貼りの大きなポスターになったり、
新聞の見開きで掲載されたり、
そしてそれが広告賞に入選したり。
多くの人の目に止まるものを作る仕事って
それなりにやりがいはあったけれど、
肉体的にも精神的にも
常に追いつめられた状態で、きつかったなぁ。

崖っぷちギリギリのところで、
やじろべえのごとく
ゆらゆらとバランスをとってた日々。

でもあの仕事をやっていたおかげで
鍛えられたことも事実だ。
広告業界を離れてもう10年以上たつけれど、
今でもピンチをなんとかすることは得意だ。
他人が見ても気づかないぐらいに、
静かに騒がず淡々と、
いつの間にかなんとかする。

あと、あらゆる角度から検証しても
どうにもならない場合を見極める眼力と、
撤収の素早さにも自信がある。

いまこうして、家庭内で異文化を
共存させなければならない国際結婚生活を、
それほど大きな問題もなくやっていけるのは、
あの崖っぷちのやじろべえ時代に
たんまり鍛えられたおかげ、
というのも多少はあると思っている。

そして揺れるやじろべえが
崖から落っこちなかったのは、
ジェンべが支えてくれていたから。

それはあの頃も今も同じだな。

もしもジェンべに出会っていなかったら、
今頃わたしはどうなっていたんだろう。

そう、わたしに転勤の辞令が出たのは
そんな崖っぷちのやじろべえだった頃のこと。

もちろんわたしだけじゃなく
ダビットの努力だって相当なものですから。

家族も友達も誰もいない、言葉も全く通じない、
そんな土地にいきなり移住だなんて
どう考えてもぶっとび過ぎている(笑)
強い人だなぁと我が夫ながら尊敬します。

国際結婚ってやっぱり大変なことも多いです。
文化や風習の違いって、思ったよりも根が深いです。
でも考え方を変えれば、
違っているからおもしろいし、飽きない。
国際結婚の良さはそこかな、と。

(そしてわたしは無職になった #2へつづく)

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