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そしてわたしは無職になった #3

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そしてH市へ引っ越しの日、 全ての家財道具を会社が手配してくれた 引越し業者のトラックへ積み終えた わたしは 、 ジェンベを担いで新幹線に乗った。 ジェンベもトラックで運ぼうかと思ったが、 10年近く住んでいた地を一人で離れて 縁もゆかりもない土地に移り住むのは、 自分で決めたこととはいえ やっぱり寂しくて、 孤独感に 心が押しつぶされそうだった。 そんなわたしに、ジェンべはそっと 寄り添ってくれているような気がして、 自分で新居まで運ぶことにした。 職場の支社は、 新居から H市中心部の大きな公園を 自転車で 抜けた先にあった。 その公園は、 世界遺産や平和資料館があって シーズンになると修学旅行生や 外国人観光客であふれる 有名な公園だけど、 通勤や散歩で普通に通る人も たくさんいる。 わたしもその中の一人になって、 春は桜の花や新緑を横目に見ながら、 夏は蝉の大合唱を浴びながら、 毎日のように自転車で通り抜けた。 実は、この公園で きっとすぐにジェンべを叩いている人と 出会うだろうと勝手に思っていた。 だって、 O市の中心部にある大きな公園では、 週末の昼間などに ジェンべを練習する人が よく集まっていたから。 ジェンべだけじゃなく、 楽器やダンスを練習する人の 練習スポットだった。 わたしも何度かその公園で ジェンべ仲間と叩いたことがある。 こういう街の中にある大きな公園なら、 楽器の音を出してもいいに決まっている。 だからきっとこの H市のこの 公園にも そういう人たちがいて、 すぐに出会うことができるだろうと 簡単に思っていた。 けれど、 公園から ジェンべの音が聞こえてくることは 一向になかった。 仕事帰り、週末や休憩中の散歩途中。 転居して数ヶ月間、 いろんなタイミングで公園を 通って耳をすましてみたけれど、 ジェンべどころか、 楽器の音は何も聞こえてこなかった。 川べりはきれいに整備されていて、 緑もいっぱいあって、 ここで叩いたら気持ちいいだろうな。 こんなに練習するのにいい場所があるのに、 誰もいないのはなぜ? その謎はすぐにわかった。 ある晴れた休日の昼間に、 ジェンべを叩きたくなっ

そしてわたしは無職になった #2

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異動先は、H市だった。 当時わたしが勤めていた会社は O市が本社の広告制作プロダクションなのだが、 H市には 小規模の 支社があり 大手広告代理店内に出向というかたちで デスクを置いていた。 比較的若くて体力のある下っ端だったせいか、 H支社の仕事がなぜかよく回ってきて、 その度にH市へ出張していた。 その頃のH支社は、 出向先の代理店と組んで 大きめなコンペに立て続けに参加していた。 コンペに通ってそのまま実作業に入ったりしたら、 滞在先のホテルはおろか O市の自宅に帰るなんて到底できず、 出張中に次の出張が決まって、 トータルで月の半分以上を H市に滞在したこともあった。 独身で一人暮らしだったから 自宅を空けることには何の問題なく、 週末はO市に帰ってジェンべを叩けていたから、 不満もなかった。 H支社の新人かと思われるくらい そこら辺をウロウロしていたため、 仕事の帰りに飲みに誘ってもらえることも しばしばで。 連れて行ってもらった先で食べたお好み焼きが あまりにも美味しすぎて、 H市の人はこんな美味しいものを いつも普通に食べてるのかと、 心底うらやましかった。 しかし会社はそんなに甘くはない。 「ホテル代も新幹線代もかかって効率が悪いから、 いっそのこともうH支社で仕事したら?」 という理由で転勤が命じられた。 転勤に対しては、特に何の疑問もなく 年棒大幅アップと住宅手当、 あとはお好み焼きに釣られて すんなりと受け入れた気がする。 ただ、Yさんの教室に通えなくなるのが ものすごく心残りだった。 わたしにとってYさんの教室はすでに、 ジェンベを叩きたい欲求を満たしてくれる場所 というだけじゃなくなっていた。 ジェンベ仲間がいて、みんなで叩いて、 ただのお稽古事を超えて、 仕事漬けの日常でボロボロになった やじろべえ状態のわたしをつなぎとめてくれる 大切な居場所だった。 そこから離れてしまって、 わたし大丈夫かな? それを考えると不安で仕方がなかった。 「ジャンベをやってる人はだんだん 増えてきてるから、H市にもきっといるよ。

そしてわたしは無職になった #1

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1日のほとんどの時間を会社で過ごし、 週に一度、Yさんの教室でジェンべを叩く。 そんな生活が何年か続いた。 広告業界の仕事は不規則で、 残業も徹夜も休日出勤も当たり前だった。 Yさんの教室が終わった日曜の午後に、 ジェンべを持ったまま休日出勤することも しょっちゅうあったし、 そんなわたしを気にとめる社員もいなかった。 気づくと半年以上 まともな休みをとっていないぞ、とか そういう恐ろしいことが そこかしこで起きていたけれど、 それを疑問に思うどころか 連勤記録更新がまるで勲章のように 掲げられるような労働環境だった。 さらに暴露すると、 タイムカードすら存在しないという 労基が入ったら一発でおしまいな会社だった。 給料は年棒制だから、 残業代もボーナスもない。 年に一度プロ野球選手ばりに年棒を交渉する。 しかしその金額はプロとは思えないほど低く、 不夜城で馬車馬のように働き続けても、 コンペに勝ち続けても、 なぜかたいして上がることはなかった。 ブラックもブラック、真っ暗闇の勤務形態。 そして、 不景気のあおりをまともに受けて どの企業も宣伝費が削られる一方だったため、 広告制作のコンペは熾烈を極めた。 コンペの度に、会社に数日こもって仕事をしていた。 「クリエイティブの追求」という旗のもと、 おもしろくないものをおもしろく、 売れないものを売れるように、 何よりもクライアント様様に気に入られることが 最も重要なミッションで、 それを企画とデザインで何とかするのが わたしたちの仕事だった。 「できません」や「無理です」と言うワードは 存在しない。 「ピンチ」をアイデアで 「チャンス」に変えて「成功」させる、 そんな錬金術が必要な業界だった。 そんな中で、 自分がデザイナーとして関わった仕事の広告が、 駅貼りの大きなポスターになったり、 新聞の見開きで掲載されたり、 そしてそれが広告賞に入選したり。 多くの人の目に止まるものを作る仕事って それなりにやりがいはあったけれど、 肉体的にも精神的にも 常に追いつめられた状態で、きつかったなぁ。 崖っぷちギリギリのところで、 やじろべえのごとく

ジェンべ・フォラとの遭遇 #5

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「Hがこのあと夕方に、 新しいジェンべのバンドでライブするから もし時間があったらのぞいてみたら?」 ある日の教室で、そうYさんが教えてくれた。 HくんはYさんの友人だ。 と言っても、Yさんよりも若くて、 どちらかというとYさんよりもわたしの方が歳は近い。 Yさんを通じて会うことが時々あり、 ジェンべ教室の忘年会はいつも Hくんの実家の天ぷら屋さんだった。 その当時Hくんは、 民族音楽ベースの創作音楽を演奏するバンドで ジェンべを担当していた。 明るくてノリが良くて、でも決める時はバッチリ決めて、 鏡を見ながら練習しているという噂があるHくん、 その成果なのかどうかはわからなかったが 華のあるHくんのパフォーマンスを すごくかっこいいなぁと思ったのを覚えている。 ライブまでの時間を、 ランチをしたりYさんのお店に立ち寄ったりして 時間をつぶした。 場所は教室のあるスタジオから徒歩圏内にある、 経営破綻して閉店した老舗デパートだった。 当時わたしが住んでいたO市の 中心部南側の長くて賑やかな商店街にあり、 アールデコ調の装飾やステンドグラスが 格式ある雰囲気の歴史ある建物だった。 デパ地下の入り口は地下鉄の駅とも直結していて、 いつも人でごったがえしていたはずなのに、 まさかそんなところが閉店してしまうなんて。 不景気ってこういうことか、と思ったけれど、 景気の新芽が枯れきってしまったような時代は あの頃もうすでにはじまっていたんだなぁ。 その後わたしの身にも少なからず そういう景気の影が及ぶことになるのだが、 この時はまだ全くの他人事だった。 会場に到着した時、 すでにHくんのバンドの演奏は始まっていた。 もとデパートだった姿を残したままのフロアで、 ジェンべの音が高らかに響いていた。 メンバーは全員日本人の男性だった。 その中に、ママディさんのワークショップで出会った あのIくんがいたことにも驚かされたが、 もっと驚いたのは、 Hくんのバンドにはジェンべだけじゃなく、 ドゥンドゥンを演奏している人がいたことだ。 ドゥンドゥンとかサンバンとか

ジェンべ・フォラとの遭遇 #4

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それからわたしは、 ママディさんの教則ビデオを Yさんのお店で購入した。 ママディさんの解説付きの 初心者向けリズムが数曲入った ジェンべの入門ビデオだ。 有名なのでご存知の方も多いはず。 それを見て、まずわたしが気づいたのが、 わたし、かっこ悪い。 ということ。 ママディさんや他のジェンべ奏者の人が ジェンべを叩いている姿と、 自分が叩いている姿が あまりにも違っていて、 日本とギニアどころか天と地ほどの差があった。 ビデオの中の人はみんなアフリカの男性。 腕が長くて頭が小さくて、 たくましい腕には 見惚れるほどの筋肉がついている。 自宅で鏡を見ながらジェンべを構えて見てみると、 薄っぺらで猫背で頼りない そんなわたしの姿とジェンべが映っていて、 心の底からがっかりする。 そして腕が短くて頭が大きくて、 彼らとは全くの真逆のバランス。 手も小さいなぁ。 どうしようもないこのちんちくりんさ加減は、 まるで子供がジェンべを叩いているかのようだ。 自分と体型が違うのは当然なんだけど、 それでもなんか雰囲気が全然違うじゃん、、、 女だから?日本人だから? でもわたしもあんなふうにかっこよく叩きたい。 腕の振り方、手がジェンべを叩く角度、姿勢など ママディさんのビデオで毎晩研究した。 仕事が終わって深夜に帰宅して、 とりあえずビールの缶をプシュっと開ける。 そこから明け方まで ビデオを再生したり一時停止したり、 ひたすらそれの繰り返しだった。 年頃の女が四畳半の部屋で夜な夜なひとり、 何やってるんでしょうね。 今思い出しても笑える。 Yさんが以前、 「友人のHはスタジオでジェンべの個人練をする時、 鏡と時計を見ながら1分間連打するのを 何回か繰り返してるらしい。 まぁスポ根系の千本ノックみたいなものだね。 極限状態の自分をいかにかっこよく見せるか 鏡でチェックするというのがいかにもHらしいよな。 僕はそんなことしないけど、いい練習にはなる。」 とか言っていたのを思い出し、 わたしもやってみることにした。 1分どころか30秒も続かない。 その上何回も繰り返すなんて到底無理だった。 ジェンべ・フォラへの道のりは 当然のことながら、ま

ジェンべ・フォラとの遭遇 #3

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ママディさんのワークショップに、 初めて参加したわたし。 いち受講者として参加して、 大勢の人と一緒にジェンべを叩いた。 ごく普通に、それ以上でも以下でもなく、 ただそれだけだった。 ママディさんと言葉を交わしたわけでもない。 というか、もし何か話せなんて言われても、 フランス語なんてさっぱりわかんないから無理。 小心者のわたしは、他の参加者に紛れながら サインだけはちゃっかりもらって、会場を後にした。 本当にただ参加しただけなんだけど、 それでもわたしの心の中には今まで以上に、 爽快な風が吹いていた。 ますますジェンべが好きになって、 もう他のことは考えられないぐらいだった。 初めて聞いたママディさんのジェンべの音は それはもう言わずもがな圧倒的な迫力で、 あれだけ大勢の生徒が叩いている中でも ママディさんの音だけが 耳にはっきり届いてきて驚いたのを 今でもしっかり覚えている。 結果としてわたしは、 このママディさんのワークショップに 参加したことをきっかけに、 ジェンべに対する興味や好奇心が 多くの打楽器のなかのひとつという認識から、 西アフリカの民族楽器という方向へ、 徐々にシフトチェンジしていくことになる。 それはつまり、 気持ちのコンパスが指し示す方角が アフリカへ向かうということだった。 でもこの時はまだ全く意識していなかった。 それでも自然とそうなっていった。 まるでジェンべの中に宿る神様に 導かれるかのように、ゆっくりゆっくりと。 ママディさんが、 偉大なジェンべ奏者を讃えた敬称 「ジェンべ・フォラ」と 呼ばれていることもそのあとで知った。 今でこそ、頑張ってるジェンべ奏者くんを 「あんた、ジェンべ・フォラだねぇ」なんて言って 冷やかし半分に褒めたりもしてるけど、 その言葉を知った時は、 ジェンべ・フォラという言葉や存在が、 神々しく感じた。 ギニアという国があることも覚えた。 正確にはギニアという国を、 生まれて初めてちゃんと認識した。 学生時代の地図帳を引っ張り出してきて アフリカのページを広げたりもした。 Yさんのジャンベ教室へは この後もしばらく通うことになる。 習うリズムは、Yさんがアレンジした ブラジルやキュー

ジェンべ・フォラとの遭遇 #2

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車窓から見える 川土手の向こうの空に 巨大な入道雲が どんと腰を据えていた。 今日も朝から暑い。 ママディさんのワークショップ会場のあるT市は、 当時わたしが一人暮らしをしていた O 市内の中央部から 地下鉄と私鉄を乗り継いで1時間ちょっとの距離。 ジェンべを担いで電車に乗るのにも ずいぶん慣れた。 教室のジェンべ仲間とは日程が合わず、 この日のワークショップはひとりで参加した。 その後わたしの ママディ・ケイタさんに関する知識は 乏しいまま特に増えることもなく、 淡々と静かにその日を迎えた。 しかしワークショップ会場に入った瞬間、 静かだった心が急にざわざわと動きはじめた。 ひ、人が多い! ざっと見ただけでも会場にはすでに 30人ぐらいの参加者がいるのが見えた。 そしてわたしの後からも まだ次々と参加者が来場していた。 これ一体何人来るの? わたしみたいな初心者でも大丈夫なのかな? 不安な気持ちが一気にあふれる。 受付を済ませて、 まだ空いている席のその中でも 一番目立たなさそうなポジションをなんとなく選んで ジェンべをケースから出した。 ジェンべのワークショップは、 受講者が30人いれば30台のジェンべが揃う。 色、形、大きさ。 ロープの巻き方も似ているようで 微妙に違う。 ひとつとして同じジェンべがない。 いろんなジェンべがあるんだなぁ。 不安な気持ちをできるだけ鎮めようと、 始まるまでじっと眺めて観察していた。 しかし 叩き始めると、 もうそんなことはどうでもよくなって、 一気に気持ちが軽くなった。 ママディ・ケイタさんは、ギニア人だった。 そしてジェンべは、 ギニアのある西アフリカから世界に広がった、 ということがわかった。 そういった話をされている時の声や表情、 たたずまいから、 これはただの人ではないということが ママディさんの音を聞く前に すでに伝わってきたのが忘れられない。 参加者すべての人の心が、 ママディさんに引き寄せられていた。 当然ながらママディさんが話す言葉は 日本語ではなかった。

ジェンべ・フォラとの遭遇 #1

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当時のわたしって、 ジェンべが好きで教室にも通っていたけれど、 楽器自体には全く無関心だった。 例えば釣りが好きな人は 釣りたい魚を釣るために道具にこだわるだろうし、 料理が好きな人は 包丁や鍋などの調理道具にまで気を使うんだと思う。 ジェンべは好きだったけど、 ジェンべのことは知ろうとしなかったわたし。 というか、叩くという行為そのものが楽しすぎて、 そっちのことは気にしてなかったというか。 ジェンべよりもむしろ、 布を買ってきて作るかどうか悩むほど 不気味に並んだ仮面柄のケースを どうにかしたいと画策していたほどで。 なんておばかさんだったんでしょうね。 ケースよりも中身でしょ。 教室に通っていて、ジェンべ仲間もいるんだから、 知るチャンスはきっとたくさんあったはずなのに。 今ならよーくわかる。 ジェンべという楽器が、 どこで生まれて、そこでどのように愛されていて、 音やリズムは楽器の持つ歴史や文化的背景と 密接な関係があって、 それを知って、感じることで、 さらにジェンべの魅力が深まること。 そしてそれらは、 自分から手を伸ばして知ろうとしなければ 近づいてきてはくれないこと。 だってジェンべは、 生まれも育ちも完全完璧に日本なわたしにとって、 よその国の文化、いわゆる異文化なのだから。 どんなに好きでも、 ジェンべの国の遺伝子はわたしにはない。 本当に今だったら、よくわかるから。 あの頃のわたしに会えるなら、 もっとそういうことも勉強しろと言ってやりたい。 アトリエワリババを名乗ったり、 教室でダビットのアシスタントとかやってる 今日この頃ですが 初心者の頃なんてまぁこんなもんでした。 そしていまここでもうひとつ白状すると、 この時点では、ワークショップに数回通ったD氏の 出身国がどこなのかすら知らなかった。 もしかしたら言ってたかもしれないけど 全く覚えていなかった。 D氏から購入した自分のジェンべが ギニアで作られたものだったと知るのは まだ後のことだった。 そんな大事なことわからなければ 普通聞くだろ?、って思うんだけど、 それでもあの頃のわたしは 気にしてなかったのだから仕方ない。 なので当然のように

叩きたくてたまらない #5

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ジェンべを練習するようになって、 今までとは全く違うルートで出会う人が だんだん増えてきた。 それまでは、 高校や大学など学生時代のつながりとか、 同世代の夜遊び仲間とか、 比較的バックボーンが似ている知人が多かったけど、 例えば忽然と姿を消した、 公園住まいのおっちゃんと話すようになったのも ジェンべがきっかけだったし、 Yさんのジャンベ教室で出会う人たちも、 とっても個性的で刺激的だった。 日曜朝10時のクラスは初心者向けのクラスで、 いつも5〜10人ぐらいの生徒がいて、 毎週のように顔を合わせた。 なぜか女性が多かったような気がする。 当時はちょっと強面で飄々としてて、 お世辞にも愛想がいいとは言えないYさんだったし、 レッスンはびしばしなスパルタ式だったし、 同性は近づきがたかったのかもしれないな、 と今は思う。 そう、Yさん。 教室で教えてる時はスパルタな職人気質の先生。 おらー!叩けぇぇー!!、とばかりに 時間いっぱい叩かせまくられる。 「この教室に通ってる生徒が下手くそのままだったら、 自分のプライドが許さないからな。」 というようなことを冗談混じりに言う人で。 でもそれは結構本音だったのかも。 そう言えちゃうのも、Yさん自身から 「きっとこの人ジェンべのことが大好きなんだろうな」 というジェンべ愛がいつも溢れ出ていたから。 ジェンべに真正面から向き合っているYさんを、 シンプルでかっこいいなぁと思った。 初心者のわたしにはYさんの言葉や叩く音に 納得させられることが本当に多かった。 猫背になってたら姿勢が悪いと怒られる。 音が出ていなかったら出るまで何度も叩かせられる。 手順にも音の良し悪しにも厳しかった。 できなくて涙を流す人もいたよなぁ。 最初の頃はついていくのに必死で、 公園での朝の個人練はもちろん、 居残り練習もやったし、 1回で覚えきれないフレーズは、 Yさんに教えてもらった 「Y式ジャンベ譜面」でメモったりして覚えた。 わたしみたいな初心者相手に先生やってるけど、 Yさんの本職はミュージシャンだ。 ライブで演奏してる時は 全身全霊で全てをさらけ出して叩いていて、 まさしく

叩きたくてたまらない #4

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Yさんのジャンベ教室は、 毎週日曜の朝10時からだった。 わたしは週に一度のその教室に 通うようになった。 今思えばその90年代後半の時代って、 ジェンべが日本の大きめな都市で 徐々に広まり始めた頃。 でも今みたいにSNSとかないし ホームページも一般的じゃなく、 テレビなどマスメディアの力が 今よりもっともっと強かった時代で。 もしあの頃、みの○んたが自分の番組で 「ジャンベを叩くと健康になる」なんて 言ったとしたら、 ギニアから木がなくなっちゃうぐらいに ジェンべが大ブレイクして、 恐ろしいことになってたかもしれないなぁ、なんて。 でも幸いにもそうじゃなかったので、 興味のある人や始めたばかりの人がそれぞれ 決して多くはない叩ける場所を必死に探して、 徐々にそこに集まり始めたタイミング だったように思う。 わたしが見つけた叩ける場所は、 D氏のワークショップや、 Yさんの教室だった。 働いていたデザイン会社を辞めて、 広告制作プロダクションに 転職したのもその頃。 デザインの花形だと思っていた広告デザイン。 残業、休日出勤、徹夜は当たり前、 家に帰れてない日数が評価される業界。 ブラック会社なんて言葉はまだなかったけど、 誰がどう見ても立派なブラック会社だった。 土曜の最終電車で帰宅し、 日曜の朝にジェンべを叩き、 そのままジェンべを担いで 会社に直行することも度々あった。 終電で夜遊びに出かけていたのに、 終電過ぎても仕事が終わらない週末。 クラブ通いから自然と足が遠のいていった。 それだけ仕事に時間を割かれても、 夜遊びできなくなってもそれでも ジェンべを叩きたい気持ちは 抑えられなかった。 というか、仕事が忙しければ忙しいほど その反動なのか叩きたくなった。 どんなに深夜に帰宅しても 朝6時過ぎに起きて、 雨が降っていなければ8時に 近所の公園へジェンべを担いで出向き、 通学途中の小学生たちの注目を浴びながら 出勤時間になるまで練習した。 マンションの多い住宅街だったけど、 その頃はまだまだ音がヘボかったせいか

叩きたくてたまらない #3

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やはりというか、狙い通りというか、 A村の民族楽器店は D氏のワークショップで いつも会う人にたずねると すぐに判明した。 Tカンパニーという名前で、 ジェンベ教室もやっていて、 教えてくれたその人も 何度か行ったことがあると言っていた。 教室があるとわかっただけで 早くその店に行きたくて気があせった。 次の週末、 わたしは自転車でA村へ向かった。 その雑居ビルは、 通り慣れた道にあった。 でも入るのは初めて。 路地のように細く入り組んだ通路に沿って 小さな古着屋や占いの店が 詰まっていた。 階段を登ったところに、 そのお店はあった。 しかし、扉は閉まっていた。 ノックしても返事はない。 その日は仕方なくそのまま帰り、 翌日、もう一度のぞいてみた。 今度は扉が開いていた。 象がジェンベを叩いているかわいらしい絵と 店名が書いてある看板が出ていた。 ちょっと入りにくい雰囲気の漂う入り口を おそるおそる覗いてみると 中にひとりの男性がいた。 それほど広くないお店の壁には ジャンベが数台並んでいた。 男性は覗いていたわたしに気づき、 ギョロリと大きな目でこちらを見て、 「いらっしゃいませ。」 と、ニコリともせず言った。 うわ、愛想わるっ。 看板のかわいい象さんのイメージと 全然違うし。 でも二日連続ここまで来たんだから、 聞いてみないと。 「あの、ジャンベが習いたいんですけど、、、」 「ジャンベですか?持ってるの?」 「あ、はい。いちおう。」 「そうですか。で、どのぐらいやってるの?」 「いや、まだ全然で、、、」 月に一回ワークショップに通ってるけど、 もっとやりたいこと、 自分の音がヘボすぎて気に入らないこと などを伝えると、 「毎週日曜日の10時から、 スタジオPで僕が教えています。 とりあえず一回来てみたら?」 と、お店や教室の情報がのっている パンフレットをくれた。 その人はYさんという名前で、 「僕はもともとコンガをやっていて、 最近ジャンベが人気

叩きたくてたまらない #2

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当時の夜遊び仲間の1人が A村にジャンベや民族楽器を売っている お店がある、とどこからか聞きつけて、 最近ジェンべにはまっている わたしに教えてくれた。 A村は、市内中心部にある 若者向けの店舗が集中したエリアで、 自宅から自転車で行ける距離だ。 クラブやレコード屋もいくつかあるし、 よく行く古着屋もその付近にあった。 しかしA村と呼ばれるエリアは そこそこ広い。 雑居ビルがひしめき合っていて、 店舗数も膨大だ。 その中から名前もわからない たった一軒のお店を見つけるのは、 スマホもSNSもない時代、 そんなに簡単ではなかった。 もしかしたら Dのワークショップに 来てる人の中に 知ってる人がいるかもしれないな、 と 思いながら、 次の情報を待つことにした。 そんな折、 ジェンべの演奏を生で見る機会が再びあった。 その夜は、最終の地下鉄に乗って ケン・イシイが回すパーティへ向かった。 港のすぐそばにある大型のクラブは、 すでに人でごったがえしていた。 わたしたちも何とかフロアへ入る。 ケン・イシイがプレイするその横で、 パーカッションセットを演奏する男性がいた。 そのセットの中に ジェンべが一台あったのだ。 打ち込み音で刻まれる 無機質なテクノミュージックの中で、 その男性は小動物が飛び跳ねるような 躍動感あるリズムを 様々な打楽器で叩き続けた。 打楽器の音に体温がある、と思った。 生きているようなその音と、 ケン・イシイがマシンから打ち出す 電子音とが混ざり合って、 独特の世界を作り出す。 小物楽器を打ち鳴らした後、 男性はジェンべに移った。 わたしはその人から目が離せなかった。 ジェンべを叩き始めると、 ケン・イシイの近未来的な世界観が、 一気にトライバルな色に変わった。 乾いた土の上に雨が降ってきたときの においがしたような気がした。 コンクリートで固められた都市は、 ジェンべの音に導かれて やがてジャングルへ還っていく、 そんな幻が見えた。 すごい! 打楽器ひとつの音色

叩きたくてたまらない #1

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それから半年ほどの間は、 月に一度のペースで開催される D氏のワークショップに欠かさず通った。 もちろんD氏から買い受けた ジェンべを持参して。 持参するようになってわかったが、 ジェンべを持ち運ぶのには なかなかの苦労がともなう。 大きくてそこそこ重い。 リュックのように背負ってみるのだが、 重心が上にあるジェンべの構造上、 背中で思うように安定してくれない。 肩にかけたり抱えてみたりしたが、 どれも持ちやすさはいまひとつ。 それでもこの頃のわたしは ワークショップに通うのが 何よりも楽しかった。 毎月通っているうちに、 顔見知りもできた。 Dのワークショップが 毎週あったらいいのに、 もしあったら絶対通うのに。 と、いつも思ってた。 仕事が早く終わった日や、 予定のない休日には、 四畳半の部屋で いそいそとケースからジェンべを出す。 そしてジェンべの下から スエットを詰め込み、 折りたたんだバスタオルを打面にかける。 椅子の足元に座布団を敷き、 その上でジェンべを構える。 叩くとパタパタと 全くさえない音がする。 それでも一応、ジャンベを叩いている。 家にジャンベがあるって嬉しい。 D氏のワークショップで教わったパートを 何度も叩いた。 しかしそれに喜んでいたのは ほんの短い間だった。 こうやって叩いても全然いい音が出ない。 わたしはD氏が叩いた時に出るような あの音が出したいのに。 そしてひとりで叩いても 全く気持ちが良くないことにも気づいた。 あの一体感や開放感は 自宅でひとりパタパタ手を動かしても 全く得られなかった。 そもそもわたしの叩き方は これで合ってるのかな? ヘボい音しか出ないのは 叩き方が間違っているのでは? Dのワークショップは月に一度だけ。 次のワークショップまでの間が、 とてつもなく長く不安に感じられた。 はやく上達したい。 もっと気持ち良く叩きたい。 そんな欲が生まれて初めていた。 ジャンベが習えるとこって どこか他にもないのかな? ジェンべの内側は 音の抜けをよくするため空洞になっています。 ここを塞ぐと多少の消音効果があ

ジェンべは突然やって来た #5

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今なら多分こんなことは絶対ありえない。 消費者を守ると謳われた法律もあるし、 電話の相手に苦情を申し立て、 さらに自分が納得のいく答えを 問いただすことのできる意思と図々しさを、 今のわたしは持ち合わせている。 泣き寝入りなんて絶対許さない。 だけど若くて世間知らずで気弱だった あの頃のわたしは その一本の電話で完全に撃沈してしまった。 欲しかった、欲しかったよ。 だけどこんな形で 手にすることになるとは。 安い買い物じゃないし、 もっとじっくりと、ゆっくりと、 迷いながら決めるのかと なんとなく思ってたな。 でもいいのかな。 そういうものなのかな? Dが選んでくれたって奥さんが言ってたし。 楽器屋さんにも売ってないし。 いや、でも、 このケースの柄はちょっとな、、、 アフリカ風の仮面がモチーフになった モノトーンのプリント柄。 ギニアへ何度も通い、 ギニア人と結婚までした今となっては、 その柄はすごく洒落ているとわかる。 だけどその時はギニアどころか アフリカンなデザインのものに対して 全く免疫がなかった。 無表情で並んだ仮面の絵が ただただ不気味に感じられた。 ジェンべの脚の部分には、 悩んでいるようなポーズで座っている 人物の絵が掘られていた。 その横にDのサインらしきものが書いてあった。 可愛らしいスマイルマークがついた 手書きのサイン。 Dの優しい笑顔が思い浮かんだ。 預金通帳には 先日振り込まれたばかりのボーナスがある。 勤め始めてまだ2年目だったから ボーナスの金額としては大したことないけれど このジャンベを買うには充分だった。 うん、これもタイミングなのかな。 突然うちにやって来たジャンベは、 この日からわたしの大切な相棒となった。 当時の仮面柄のケースはもう手元になく、 今思えばそこまで悪くなかった気がします。 これはニンバという名前の精霊像。 こんな目をした仮面の柄でした。 (叩きたくてたまらない #1へつづく)

ジェンべは突然やって来た #4

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四畳半の部屋に ぷーんと独特の獣臭がただよう。 部屋が狭いせいか、 ワークショップで 叩かせてもらったジャンベよりも ずいぶん大きく感じる。 この状況を理解するためにも、 まずはDに連絡してみよう。 そして、もやっと疑問に感じたことを 全部質問してみよう。 送り主の欄にある番号に電話をかけた。 数回コールすると電話がつながった。 「もしもし」 聞こえてきた声はDではなく 女性だった。 Dが出るものだと思っていたので 意表をつかれてしまった。 「あ、あの。Dさんはいらっしゃいますか?」 「どちら様ですか?」 電話の向こうの女性の声が 急に警戒心をむき出しにしたように感じた。 その声色に怖気付いてしまったわたしは、 「いや、えっと、あの、 いまDさんからジャンベが届いて、、、」 それだけ言うのに精一杯だった。 「えっ?ああ、そうなんですね。 お名前をお願いします。」 声は普通のトーンにもどった。 何なのいったい、この人?? 名前を告げるとその女性は、 「ジャンベ届きましたか? よかったですね、いいのが見つかって。 Dがあなたのために選んだんですよ。」 「えっと、あの、、」 「あ、代金は次回Dに会う時に 直接渡してください。」 「いえ、その、Dさんはいらっしゃいますか?」 わたしはまずDと話すことが 必要だと思っていた。 しかしその女性はきっぱりと言った。 「わたくしはDの妻ですが、 Dは留守にしてますので。」 話は以上だった。 獣臭がするのは、 ジェンべがヤギなどの動物の皮を使用しているから。 そこまで極端には臭いませんが、 わたしの初代ジェンべの皮はどちらかとうと 香り高い(笑)ほうでした。 ( ジェンべは突然やって来た #5へつづく )

ジェンべは突然やって来た #3

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D氏のワークショップが終わって 1週間ほどたった日曜の午後のことだった。 昨夜はドラムンベースのパーティで はしゃいでいたため、 お昼を回ったついさっき目覚めた。 雑居ビルにはさまれた四畳半の1K、 寝起きしている部屋には窓がなく、 キッチンについている小さな窓も北向き。 日差しの影響を全く受けないその部屋は、 オール明けの日に眠るのに ちょうど良かった。 のろのろと起き出して、 アパートの小さな部屋を 片付たり掃除したりしていると ふいに玄関のチャイムが鳴った。 誰か来る予定あったっけ? 外を確かめようと扉の覗き穴に近づくと、 「宅配便でーす。」と、 向こう側から声がした。 実家かな? でも荷物を送る予定なんて聞いてない。 「はい」と返事をして、 チェーンをつけたまま扉をあけると、 そこに宅配便のお兄さんが 大きめな荷物を持って立っていた。 「重いですよ。」 手渡された荷物をいったん下に置き、 よくわからないまま受け取りのサインをした。 発送者の欄にはDの名前があった。 それを見てわたしはハッとした。 もしかして、これジャンベかも? なんで? いきなりなんで?? バタンと扉が閉まり、 お兄さんが階段を駆け降りる足音が だんだん遠のいていく。 小さな玄関は呆然とするわたしと 突然現れた荷物とが、 まるで世界から取り残されたように 立ち尽くしていた。 予期せぬ突然のできごとで、 ドキドキ心臓が鼓動する。 頭の中はクエスチョンマークだらけになり 次の行動にうまく移れない。 透明なビニールでカバーされた中に エスニックな雰囲気の柄の布地が ちらりと見えた。 心臓の鼓動がさらに高まる。 落ち着け落ち着け。 とりあえず、うん、 とりあえず開けてみよう。 中から出てきたのは、 一台のジャンベと、請求書だった。 これがその実物。D氏のサインがちらりと見えてます(笑) 初めて出会った時の印象は散々だったけど、 その後長い間わたしのよき相棒でいてくれました。 そう、確かにわたしはDに ジャンベが欲しい、と言った。 それがいきなり家に送られてくるって、 なんか展開が速す